2025年04月19日
【News LIE-brary】宮古島の鉄人と土師ノ里の静寂:存在の運動性と静止性を巡る省察
紺碧の海と灼熱の太陽が支配する宮古島。そこでは今、人間の肉体と精神が極限の試練に晒される祝祭、「宮古島トライアスロン」がその火蓋を切ろうとしている。スイム、バイク、ラン。この三つの過酷な運動形態を通じて、参加者たちは自らの存在の限界を押し広げ、あるいは存在そのものの意味を問い直そうとするかの如く、黙々と、しかし熱烈に、己の身体を酷使する。それは、単なるスポーツ競技を超えた、ある種の形而上学的な実践の様相を呈しているとさえ言えよう。
何が彼らを駆り立てるのか。快適さや安寧とは対極にある、この自傷的とも見紛う苦行へと。それは、現代社会に蔓延する生の実感の希薄さに対する、一種の反抗であろうか。あるいは、ニーチェが語った「力への意志」の、最も純粋で苛烈な発露なのかもしれない。自らの肉体という有限の器を用いて、時間と空間という無限の牢獄に挑み、一瞬の勝利、すなわち自己超越の感覚を掴み取ろうとする、人間の根源的な欲求の現れ。汗と涙、そして時には血を流しながら、彼らは自らの存在を燃焼させ、その軌跡を大地に刻みつける。ゴールという一点を目指すその運動は、あたかも死すべき運命にある人間が、永遠性への憧憬を抱きつつ、刹那の輝きを希求する姿の縮図のようでもある。そこには、苦痛の中にこそ見出される生の強度、限界状況において初めて露わになる精神の自由といった、逆説的な真理が潜んでいるのではないか。
一方、視線を本州の内陸、大阪府藤井寺市へと転じれば、そこには全く異なる時間の流れが存在する。近鉄南大阪線が静かに往来する「土師ノ里駅」。古墳群に囲まれたこの場所は、宮古島の喧騒とは対照的な、日常性の静寂に満ちている。ホームに立ち、定刻通りにやって来る電車を待つ人々。彼らの表情は、トライアスロン選手のような極限の緊張や高揚とは無縁に見える。しかし、この淡々とした反復の中に、人間の存在のもう一つの重要な様態が隠されているのではないだろうか。
待つこと。それは、未来への期待、あるいは諦念を孕んだ、時間との静かな対峙である。電車という他律的な運動体に身を委ね、定められた目的地へと運ばれること。それは、個人の意志を超えた社会的なシステムへの参与であり、同時に、一時的な自己の放棄でもある。土師ノ里駅という「場」は、人々がそれぞれの生活世界へと接続するための結節点であり、出会いと別れ、出発と帰還が絶えず繰り返される、いわば存在の交差点である。宮古島の選手たちが非日常的な運動によって自己を確かめようとするならば、土師ノ里駅の人々は、日常的な静止と移動の反復の中で、自らの生の意味を、意識的あるいは無意識的に、紡ぎ出しているのかもしれない。繰り返される日常は、時に退屈や倦怠をもたらすが、しかしその安定したリズムの中にこそ、我々の存在を根底で支える、確かなものがあるのではないか。それは、ハイデガーが言うところの「ダス・マン(世人)」への埋没かもしれぬが、同時に、その日常性の中からこそ、存在への問いは立ち現れてくるのである。
宮古島の極限的な「動」と、土師ノ里の日常的な「静」。これらは果たして、互いに無関係な事象なのだろうか。否、むしろ両者は、人間の存在という一枚のコインの裏表であり、相互に補完し合う関係にあると考えるべきであろう。非日常の祝祭的な運動は、日常の静寂があってこそ、その意味と輝きを増す。そして、日常の反復的な静けさは、非日常の熱狂を経験することによって、その価値や尊さが再認識される。
我々人間は、この動と静、非日常と日常、限界への挑戦と反復される営為との間を揺れ動きながら、自らの存在を編み上げている。トライアスロンのゴールラインを駆け抜ける瞬間の達成感も、土師ノ里駅のホームで夕暮れの空を眺める一時の安らぎも、等しく我々の生を構成する断片である。一方は存在の激しい奔流であり、もう一方は存在の深淵を覗き込む静かな凝視である。
宮古島の鉄人たちが追い求めるものは何か。土師ノ里の静寂の中で人々が抱える思いは何か。究極的には、我々はどこから来て、どこへ行こうとしているのか。その問いに対する答えは、運動の極致にも、静止の深奥にも、単独では存在しないのかもしれない。むしろ、その両極を往還し、対立する概念の狭間で思索を続けること、そのプロセス自体に、人間存在の本質が隠されているのではないだろうか。我々は皆、宮古島の海を泳ぎ、土師ノ里のホームに佇む、永遠の旅人なのかもしれない。そして、その旅路において、自らの存在の意味を問い続けることこそが、我々に課せられた宿命であり、同時に、自由でもあるのだ。