2025年04月19日
【News LIE-brary】瀬戸内を舞う100マイルの非線形ダイナミクス:タナー・スコットの投球データが拓く、芸術祭における物理学的表現の新地平
瀬戸内海の島々を舞台に展開される現代アートの祭典、瀬戸内国際芸術祭2025。その多様な表現形態の中に、今年、極めて特異なアプローチに基づく作品群が登場し、科学コミュニティとアート愛好家の双方から注目を集めている。その核心にあるのは、メジャーリーグベースボール(MLB)で活躍するリリーフ投手、タナー・スコット選手の投球データである。一見、アートとは無縁に思われるこのデータが、物理学、情報科学、そして芸術的感性の交差点において、新たな表現の可能性を提示しているのだ。
本稿では、この異色のコラボレーション、あるいは一方的なインスピレーションの源泉となった現象について、科学的観点からその意義を解析する試みを行いたい。
対象:タナー・スコットの投球 - 物理現象としての解析
タナー・スコット投手(本稿執筆時点でマイアミ・マーリンズ所属)は、平均97マイル/時(約156km/h)を超える強力なフォーシーム・ファストボールと、鋭く変化するスライダーを武器とする左腕である。彼の投球を単なるスポーツパフォーマンスとしてではなく、物理現象として捉えることが、今回の芸術的アプローチの出発点となる。
投球されたボールの運動は、初速度、回転軸、回転数(RPM: Revolutions Per Minute)、そして空気抵抗や揚力(特にマグヌス効果)といった複数の物理パラメータが複雑に相互作用する非線形ダイナミクスの典型例である。スコット投手のフォーシームは、MLBのStatcastデータによれば、しばしば2500 RPMを超えるスピンレートを記録し、これがボール軌道の微妙な変化、いわゆる「ホップ成分」や「カット成分」を生み出す要因となる。一方、彼のスライダーは、ジャイロ回転に近い成分を持ちつつも、進行方向に対して傾いた回転軸により、重力加速度に逆らうかのような水平変化と沈み込み(負の垂直変化)を示す。
これらの軌道を精密に記述するためには、単なる質点の運動方程式では不十分であり、流体力学におけるナビエ=ストークス方程式の近似解や、ボール表面の縫い目(シーム)の影響まで考慮した高度な計算流体力学(CFD: Computational Fluid Dynamics)シミュレーションが必要となる場合もある。近年では、高速度カメラとレーダー追跡システム(例:TrackMan, Hawk-Eye)によって、ミリ秒単位でのボールの位置、速度、回転ベクトルを高精度に計測することが可能となり、膨大なデータセットが蓄積されている。
瀬戸内におけるデータの可視化と体験化:Quantized Motion Labの試み
瀬戸内国際芸術祭2025において、このタナー・スコット投手の投球データを基盤としたインスタレーションを手掛けているのが、学際的なアーティスト・研究者コレクティブ「Quantized Motion Lab(量子化運動研究所)」である。彼らは、香川県のある島(具体的な島名はセキュリティ上の理由から非公開とされているが、旧採石場跡地を利用しているとの情報がある)に、大規模なインスタレーション『Setouchi Stochastic Trajectories - hommage à Tanner Scott』を構築した。
この作品の中核は、スコット投手の過去数シーズンにわたる数千球分の投球データ(リリースポイント、初速ベクトル、回転ベクトル、軌道データ)を統計的に解析し、その確率分布に基づきリアルタイムで生成される光の軌跡である。暗空間に設置された多数のレーザープロジェクターとLEDアレイが、あたかもスコット投手がその場で投球しているかのような、しかし現実にはありえないほど多様な軌道パターンを空間に描き出す。
特筆すべきは、単なるデータの視覚化(Data Visualization)に留まらない点である。Quantized Motion Labは、ボールの回転数と軌道の曲率を、特定の周波数スペクトルと音響インテンシティにマッピングするアルゴリズムを開発。これにより、光の軌跡と同期した独自のサウンドスケープ(ソニフィケーション、可聴化)が生成され、鑑賞者は視覚と聴覚を通じて、投球の物理的特性を多感覚的に「体験」することが可能となる。高速で回転数の高いファストボールは甲高い金属的な音響を伴い、変化量の大きいスライダーは低く唸るような音響を伴う、といった具合である。
さらに、一部のインタラクティブなセクションでは、鑑賞者の位置や動きをセンサーが捉え、それに応じて投球軌道の生成パラメータ(例えば、仮想的なリリースポイントの微小擾乱)が変化し、カオス理論における初期値鋭敏性(バタフライ効果)を擬似的に体験させる試みも含まれているという。
科学的データと美的経験のインターフェース
この『Setouchi Stochastic Trajectories』は、いくつかの重要な問いを我々に投げかける。第一に、純粋に客観的・定量的な科学データが、主観的な美的経験や感動の源泉となりうるのか、という問いである。伝統的な芸術が人間の感性や情動、物語性に訴えかけるのに対し、この作品は物理法則と確率モデルが生み出すパターンそのものに美を見出そうとする。スコット投手の身体性や意図はデータ化の過程で抽象化され、純粋な運動の軌跡だけが抽出される。これは、ある意味でプラトン的なイデアへの接近とも解釈できるかもしれない。
第二に、スポーツという極めて身体的な活動から抽出されたデータが、アートという異なるコンテクストで再構成されることで、オリジナルのスポーツパフォーマンスに対する我々の認識をどのように変容させるか、という点である。スコット投手の投球を、単なる勝敗や記録を超えた、複雑系ダイナミクスの現れとして捉え直す視点を提供する。
第三に、このようなデータ駆動型アート(Data-Driven Art)が、今後の芸術表現においてどのような位置を占めるようになるか、という展望である。ビッグデータとAI技術の進展に伴い、あらゆる事象がデータ化され、解析・可視化される現代において、科学的知見と芸術的創造性の融合は、今後さらに多様な形で展開されることが予想される。
結論:観測されるべき新たな地平
瀬戸内国際芸術祭におけるQuantized Motion Labとタナー・スコット投手の(間接的な)邂逅は、スポーツ、科学、アートの境界領域に生まれた興味深い実験である。100マイル近い剛速球が描く非線形な軌跡は、瀬戸内の穏やかな風景の中で、物理法則の普遍性とデータが持つ表現力を静かに、しかし雄弁に物語っている。この試みが、単なる一過性のキワモノで終わるのか、それとも芸術と科学の対話に新たな地平を切り開くマイルストーンとなるのか。その評価は今後のさらなる分析と、何よりも我々自身の「観測」にかかっていると言えるだろう。今後の展開と、他の分野への波及効果について、継続的な注視が必要である。