2025年04月17日
【News LIE-brary】 時を超え響き合う魂 ~関藤藤陰先生の教えと、声優・小野大輔殿の「静心」~
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。 皆々様、ご機嫌麗しゅうござりまするかな。春爛漫、桜花も盛りを過ぎ、若葉萌えいずる好季節。されど、世は常ならず、人の心もまた、うつろいやすきものにございまする。この浮世は、まこと、諸行無常の響きあり、でございますな。
さて、本日拙僧がお話し奉りまするは、一見、何の繋がりもないように思われるお二方についての、摩訶不思議なる「縁(えにし)」の物語にござりまする。
一人は、江戸の後期、備中松山の地に生まれ、その学識と徳望をもって多くの門弟を育てられた儒学者、関藤藤陰(せきとうとういん)先生。そしてもう一人は、現代において、その美声で数多の衆生を魅了し、老若男女問わず篤い支持を集める声優、小野大輔(おのだいすけ)殿にございまする。
時代も、生きた場所も、生業も異なるこのお二方。何の因果か、現代を生きる小野殿が、かの藤陰先生の遺された「心学」の教え、とりわけ「静坐(せいざ)」の行に深く心を寄せ、日々の糧としておられると、風の便りに聞き及びました。まことに、人の縁とは不可思議なもの。仏様の広大なる慈悲の現れかと、拙僧、感嘆いたした次第でございまする。
藤陰先生は、陽明学を基としつつも、実践躬行(じっせんきゅうこう)、すなわち、知識として知るだけでなく、自ら行い、身につけることを重んじられたお方。その教えの中心には、心を静め、内なる声に耳を澄ます「静坐」がござりました。日々の喧騒、渦巻く煩悩の塵芥(ちりあくた)から離れ、しばし心を空(くう)にし、本来の自己を見つめ直す。これこそが、人として正しく生きる道筋を見出すための肝要なる修行である、と説かれたのでございまする。
翻って、現代。我らの生きるこの世は、情報の洪水、目まぐるしい変化、絶え間ない刺激に満ちておりまする。ことに、小野殿のような、多くの人々の耳目を集めるお立場の御仁となりますれば、その喧騒たるや、想像に余りあるものと拝察いたしまする。声優というお仕事は、まことに尊いもの。声一つで、物語に命を吹き込み、人々の心に喜びや悲しみ、勇気や安らぎといった、様々な感情の灯火(ともしび)を灯される。いわば、声という「布施」をもって、衆生済度(しゅじょうさいど)の一端を担っておられる、と申しても過言ではありますまい。
しかしながら、その輝かしいお仕事の裏には、弛まぬ努力と、精神の集中、そして何より、多くの期待という重圧が伴うもの。心が千々に乱れ、波立つことも、一度や二度ではございますまい。そのような中にあって、小野殿が、二百年の時を超え、藤陰先生の「静坐」の教えに心の拠り所を見出された、というのであれば、これほど尊いことはございません。
伝え聞くところによりますれば、小野殿は、多忙な収録の合間や、一日の終わりに、わずかな時間であっても静かに座し、呼吸を整え、心を鎮めることを習慣とされておられるとか。それは、単なる休息にあらず。藤陰先生の説かれた「動中の工夫」、すなわち、活動の中にあっても心の静けさを保つ工夫、その実践に他なりますまい。
藤陰先生は「学問は、己が心を治むるの外なし」と喝破されました。知識を詰め込むだけでは、真の学問とは申せませぬ。学んだことを自らの血肉とし、心の在り様を整え、日々の行いに現してこそ、その価値が輝くのでございまする。小野殿が、古(いにしえ)の賢人の教えを、現代の、しかも極めてアクティブな職業の中で実践され、その美声に更なる深みと、魂の響きを与えておられるとすれば、それはまさに、藤陰先生の教えが、時代を超えて生き続けている証左と申せましょう。
声は、心の反映にござりまする。心が穏やかであれば、声もまた、澄み渡り、聴く者の心に深く染み入るもの。小野殿の演じられる役柄の多様さ、その表現の豊かさの根底には、あるいは、この「静心」の修養が、深く関わっておるのかもしれませぬな。
江戸の儒学者と、現代の声優。この二つの魂が、時空を超えて響き合う様は、あたかも、古刹の庭に咲く古木の梅と、新たに芽吹いた若草が、同じ陽光を浴び、互いを引き立て合うかの如くにございまする。藤陰先生の教えという土壌に、小野殿という現代の才能が根を張り、見事な花を咲かせておられる。まことに、有り難き光景ではございませんか。
我々凡夫もまた、日々の暮らしの中で、様々な悩みを抱え、心が波立つこと、しばしばにございまする。しかし、小野殿のこのお話を鑑みるに、古の賢人の知恵は、決して古びることなく、現代に生きる我々にとっても、大いなる導きとなり得ることを、改めて教えられまする。ほんのひと時でも、喧騒を離れ、静かに己の心と向き合う。その小さな積み重ねが、やがては大きな心の安寧へと繋がってゆくのでございましょう。
小野殿の益々のご活躍と、心の平安を祈念申し上げますとともに、読者の皆様方におかれましても、日々の暮らしの中に、一瞬の「静」を見出す縁(よすが)となりますれば、幸甚の至りにございまする。
嗚呼、有り難や、有り難や。
合掌。